『花束みたいな恋をした』(映画)【レビュー】

感じたこと

・まるで友達カップルのお話をきいているようなリアルさで、鑑賞後は思い出が増えた気持ちになった

・切ない結末となるはずなのに、最後は爽やかさに包まれ、とても不思議

現在、30代前半で、かつ京王線沿線が大学時代から生活圏内だった自分にとってこの映画は、非常に共感できる部分が多く、麦君と絹さんが街を歩く度、またその年毎のビックニュースの数々に触れる度に、「あーあの場所だー」や「あーそんなことあったよなー」と、頷きの連続でした。

そんな親近感からか、物語が進むにつれ、まるで知り合いのカップルのはじまりから終わりまでの一部始終を、つぶさに語られているようで、何ともいたたまれないような気持ちになりつつ、映画を見ていました。特に、終盤のファミレスのシーンでは、見ているこちらまでもが、精神的に苦しく心がヒリヒリしました。

私がこの映画を見て、強く感じたことは、社会に適応していくということは、絹さんのお母さんが「お風呂」に例えていっていたように、一見、良い事だらけのようにみえるけれども、一方でそれは、没個性化された均一的な人間への変容なのかもしれない、ということでした。そういった意味で「お風呂」の例えを考えてみると、ここでいう体のヨゴレとは、社会にとって「不必要な個性」ともいうべきでしょうか。

特に麦君は、就職するまでは、自分の好みに合致する趣味嗜好を、自分自身で選んで、主体的に人生を謳歌していたのに就職してからは、好きだったイラストは描かなくなってしまい、愛読していたキングダムも途中で読まなくなってしまい、ゲームにも夢中になれず、日々の楽しみは、(おそらく周りのみんながやっているのであろう)パズドラしかないという、何とも・・・どこにでもいるような没個性化された、社会人にしか見えず、「あんなにキラキラしていた魅力的な麦君は、一体どこに消えてしまったの!?」と思いました。(それをサラリと演じてみせる菅田将暉さんの演技力はハンパないのですが)

さて、物語の結末は事実だけ取り上げてみると切ないはずなのですが、実際には、まるで春風がふいたような爽やかな雰囲気に包まれつつ、エンドロールを迎えます。それはきっと、二人が過ごしてきた過去、そして導き出した未来への決断の双方が、現在の二人の背中を後押ししてくれているためだと思いました。

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